当サイトについて
劇団針穴写真では、劇団針穴の活動を紹介しています。
他にも気になる日本の劇団のニュース等を掲載していく予定です。
日本国内の劇場
- あいれふホール
- 今泉ハミングホール
- イムズホール
- NTTホール
- エルガーラホール(西日本新聞社ビル)
- 春日市ふれあい文化センターサンホール
- 春日市ふれあい文化センタースプリングホール
- ガスホール
- 九州エネルギー館エネルギーホール
- 九州大学学生会館(六本松)
- キャビンホール
- クロッシングホール
- 早良市民センター
- シアターポケット
- スカラエスパシオ
- 住吉演舞場
- 大博多ホール
- 高宮女性センターアミカス
- 中央市民センター
- 都久志会館
- 電気ホール
- 博多市民センター
- パピオビールーム
- ビブレホール
- 福岡国際センター
- 福岡サンパレス
- 福岡シティ劇場
- 福岡市民会館小ホール
- 福岡ドーム
- ベイサイドホール
- ベストホール
- まどかぴあ大ホール
- マリゾンホール
- 宗像ユリックスハーモニーホール
- 明治生命ホール
- メルパルクホール福岡
- ももちパレス
- 夢工房
有名な劇団
宝塚歌劇団
創設の当初から「老若男女誰もが楽しめる国民劇」を目指し一躍有名になった宝塚である為、現在も、演目は健全かつどの世代の人が見ても楽しめるものである。芝居やショーのテーマは古今東西にわたり、歴史劇、ファンタジー、そしてSFまで多岐にわたる。
主な専用劇場である宝塚大劇場(宝塚市)と、東京宝塚劇場(千代田区)において公演を行っている。また、中劇場の宝塚バウホール(宝塚市)も所有。
舞台に出演するのは宝塚音楽学校の生徒と卒業生であり、未婚女性である。女性だけの劇団であるため、男性役も女性が演じる。女性の役を「娘役」、男性の役を「男役」と言う。入学時にどちらかを優先的に希望することになっているが、厳密ではない。創設初期の頃は娘役に人気が集まったが、現在は男役の方がファンの人気が高い。そのため舞台構成なども男役を中心に作られる。団員は全て芸名で活動し本名を芸名には出来ない。例に、現在女優の毬谷友子は本名の矢代友子で活動しようとしたが認められず、洗礼名を名字とする芸名とした。
一般には「宝塚歌劇」を「タカラヅカ」や「ヅカ」、宝塚歌劇の団員を「タカラジェンヌ」(パリジェンヌのもじりで、団員たちは「宝塚乙女」と自称)、宝塚歌劇のファンは「ヅカファン」と呼ばれる。彼女等のプロフィールに誕生日は公開されるが、生年は公開されない。宝塚音楽学校と一体だったときのなごりで団員は「生徒」、稽古場は「教室」、演出家は「先生」と呼ばれる。
テレビ放送が普及した頃、一時期観客動員が低迷し、一部のマスコミからも酷評を受けたことがあった。この状況を打開すべく、1974年に池田理代子原作の漫画『ベルサイユのばら』の舞台化を企画。往年の映画俳優・長谷川一夫を演出に招き、漫画を題材とするなど、異例中の異例であったこの舞台版ベルばらは大成功を収め、「タカラヅカ」は再び脚光を浴び、多くの女性が宝塚歌劇に憧れるようになった。特に養成機関である宝塚音楽学校の倍率がそれまでは4倍前後であったのが、『ベルばら』後は20倍前後になっている。
当初、劇団員の芸名は百人一首にちなんだ名がつけられていたが、ネタが尽きたため百人一首に固執せず、現在では劇団員が自分で自由につけている。過去にタカラヅカにあった芸名と被らないようになっているが、瀧川末子のように親娘3代で名乗る(2代目のみ「滝川」)芸名もある。
劇団のシンボルソングのようになっている「すみれの花咲く頃」は戦前のドイツ映画主題歌「リラ(またはライラック、ニワトコ)の花咲く頃」をフランスでシャンソン化して歌われているのを聴いた白井鐵造が持ち帰って詞をつけたもの(原曲のドイツ語版のCDなども発売されている)。歌劇団のみならず阪急百貨店の開店時にも演奏されるなど阪急東宝グループの象徴的なテーマ曲となっている。
劇団四季
四季メソッドという母音をはっきり発音する独特の朗唱法を使用している(母音法)。台詞がはっきり観客の耳に届くよう生み出された発声方法だが、はっきり伝えようとするあまり台詞に感情が無いと、この発声方法を嫌う演劇関係者や観客もいる。
当初は東京大学と慶應義塾大学の仏文科の学生(浅利慶太や日下武史ら)を中心として結成された学生演劇集団であった。最初からミュージカル劇団だったわけではなく、設立からかなり長い期間がストレートプレイ専門の劇団だった。というのは、当時新劇界を席巻していたイデオロギー優先で演劇的な面白さを欠いた潮流に懸念を抱いた創立者たちが、演劇そのものの面白さを追求する劇団として立ち上げたからである。主にジャン・ジロドゥやジャン・アヌイらフランス文学作家の書いた戯曲を演じていた。劇団の精神的指導者は創立メンバーにフランス演劇を教えた加藤道夫だが、加藤は劇団四季の創立直前に死亡している。
最初は学生による同人的な劇団だったが、次第にプロ化し1967年に株式会社になり四季株式会社となる。「四季」と名付けたのは、俳優・演出家の芥川比呂志である。芸術性を優先して日本人による創作劇を連続上演して経営危機に陥ったり、生活を支えるためにアルバイトを優先する劇団員とそれを批判した劇団幹部の対立によって内部分裂の危機に見舞われたりしたが、安定した集客力をもつ高いレベルの芝居を上演することで、芝居だけで劇団員が生活できる経営を目指すようになっていく。
1971年に越路吹雪主演のミュージカル『アプローズ』をヒットさせてから、さまざまなミュージカルを上演しながら技術を蓄積し、1979年に『コーラスライン』を上演したことが転機になる。日本の劇場は月単位契約のために大ヒットを重ねてもどうしても収益が限られてしまうため、劇団四季は四季専用の劇場を得ることを模索しはじめた。1983年に西新宿の空き地にテント張りの仮設劇場を設けて、『CATS』のロングラン公演に踏み切る。1984年の11月10日までの公演となった。
1985年に大阪市西梅田の旧国鉄コンテナヤードに仮設テントを設けて『CATS』を再演し、13ヶ月のロングラン公演を達成した。
『コーラスライン』を上演するまで劇団四季の上演回数は多くても年19回で、年平均10回程度だった。『コーラスライン』を上演した1979年は前年の50倍の581回となり、『CATS』を初演した1983年は707回。以後一貫して上演回数が増え続け、2002年には2530回上演している。
子供向けミュージカルにも力を入れている。